「歌月十夜」(present by TYPE-MOON) シナリオ 『「夢十夜」宵待閑話』 ---------------------------------------------------------------------------- ————後ろ髪が背中にまとわりつく。  待ち続ける事に慣れてしまったのか、最近の私は沈み込んでいる時が多い。  物思いは昏いものばかりで、希望的観測もうまくできない。  待ち人はとうに喪われていて、この胸に残る温かさはただの錯覚なのだと誰かが囁く。  それなら、と。  いっその事、荷物のように感じる髪なんてばっさりと切ってしまおうか、なんてコトを考えてみた。  ……なるほど。実際のところ、それはそれでそう悪い考えではないと思う。 □浅上女学院の寄宿舎  そうして、私は寄宿舎に戻ってきた。  一月八日。  ひどく鈍重に感じられた三が日が過ぎ、さらに鈍重だった五日が過ぎて、ようやく寄宿舎が開かれるこの日になった。  暦を掛け替える最後と最初の日は好きではない。  気温だけでなく暦も凍ったように鈍く、時間の歩みはまるで牛歩だ。その反応の鈍さが余裕のない私には癇に障る。 「—————はあ」  重苦しいため息を一つ。  長く、ことによっては夏季休暇より長く感じられた冬季の休みはあと二日。  始業式まで屋敷に残れ、と言う琥珀と翡翠の無言の申し出を無視して、私は一足早くこの寄宿舎に戻ってきた。  理由の一つは、実に私らしくない。  ……帰ってくる筈の人が帰ってこない。  その無為な時間が辛くなったわけではなく、その無為さに慣れ始めた自分が嫌になって、待ち人が現れる筈のないここに逃げこんだなんて、本当に、私らしくない事だ。 □寄宿舎の廊下  適度に新しく、また古くさい廊下を歩く。  私立浅上女学院は創立後五十年を数え、その寄宿舎も同じように年をとってきた。  校舎は数年前に移転し、名門女学院に相応しい外見を保っているが、寄宿舎はいまだ五十年前のカタチを残した木造の建物である。尤もそれも去年までの話で、寄宿舎の改築も少しずつ進んでいた。  この冬季休暇の間、寄宿舎は一階から作りなおされている。  この分では夏には寄宿舎の改築も終わり、この古臭い建物とはお別れになってしまうだろう。  浅上女学院は原則として全寮制で、生徒の大部分がこの寄宿舎で生活する。  寄宿舎の周囲は雑木林。  さらにその雑木林を囲むように高い塀が存在し、敷地から外へ通じる門は大小合わせて二つのみ。  徹底した管理体制は建物にも見られ、正門には“この門をくぐるもの、一切の青春を捨てよ”と何処かで聞いたような謳い文句が刻まれている。  その文句が真実である事は、果たして寄宿舎入居二日で思い知らされる。  冗談の一つも口にしない職員側にしてみれば中々の酔狂ぶりだが、無論、その悪戯書きは卒業生によるものである。 □寄宿舎の部屋  廊下で何人かの生徒と挨拶を交わして部屋に到着した。  生徒会と自治会の役員を務めている生徒は今日から仕事があるのだろう、宿舎にはぽつぽつと生徒たちの姿があった。  家には居辛い、と逃げこむように戻ってきた生徒たちの姿も少なくはなかった。  そんな訳で我がルームメイトたちも戻ってきていると思ったのだが、蒼香と羽ピンの荷物はない。 「……二人ともまだ帰ってきてないか」  羽ピンは実家に帰るのを嫌がっていて、休み中はずっと宿舎に潜伏してやる、と豪語していたが、姿がない所を見ると見つかって強制送還されたのだろう。 「——————————————」  気を取り直して、一人でいるコトを堪能する事にした。  窓から射し込む陽射しは暗く、部屋は灰色の雲中にあるようだ。  それでも電灯をつけるほどの暗さではなく、この仄かな明るさは今の私には心地良い。  窓際まで歩いて、手にした鞄を自分の机に置く。  机の上には何もない。  休みに入る前に整頓したのだから当然だ。机の上は作りたてのプディングのように滑らかで平坦でなければならない。 「……封筒?」  だっていうのに、机の上には一つの異物があった。  紫色をした、宛名も何も書いていない封筒。  宛名が書いていないのだから届けられる筈もなく、  差出人の名前もないのだから返ってくる筈のない手紙。  それが私の机の上にぽつんと置かれている。  灰色の夕暮れ。  無人の部屋に置かれた紫の封筒。  ふんふん、これってわりとミステリーじゃない? 「——————ふぅん」  紫の封筒を手に取る。  中には白紙が一枚きり。  そこに何が書かれようとしていたのかは解っている。  私の願い事は一つだけだ。  それを言葉にしようとして、けれど一文字も書かなかった意気地のない白紙がこれ。  つまりこれは、冬休み前にちょっとした気紛れで実行した、ある一つの儀式の結果だった。  もちろん実行したのは自分である。  つまり、この封筒は私が私である遠野秋葉に対して送った宛名のない手紙で。  本来なら決して返ってくる筈のない、何の意味もない手紙だった筈である。 □寄宿舎の部屋  一夜明けて一月九日。  明日から授業という事もあって、宿舎内は帰ってくる生徒たちの姿で慌ただしい。  その中でもとくに慌ただしいのが、 【羽居】 「あれぇー? 秋葉ちゃん、わたしの七つ道具知らないー? お休みに入る前に秋葉ちゃんのトコに置いておいたんだけどー」  この、先ほど部屋に戻ってきた三澤羽居、通称羽ピンである。 「……羽居。七つ道具って言うと、あのハサミやらハンダやらが詰まった巾着袋のことを言ってるの?」 【羽居】 「そう、それー。大切なものだから秋葉ちゃんに預かってもらってたんだけど、やっぱりわたしが持ってるコトにしたのー」  ……断っておくと、別に羽ピンは寝不足という訳でもないし、寝起きという訳でもない。  この子は始終この状態だ。つねにアルファー波を出しているようなものだから、生きるのがとても楽しそうで羨ましい。 「そう。なら急がないと間に合わないわよ。休日中のゴミはまとめて焼却するそうだから、運が良ければ見つけられるんじゃないかな」 「ええー? よくわかんないけど、秋葉ちゃんなんか恐いコト言ってる気がするなー」 「別にそんなコトはないけどね。たんに整理整頓した筈の私の机に見慣れない巾着があったから、ゴミ箱に捨てただけだもの」 「うわー。やっぱり恐いコト言ってるー」  慌てた素振りもなく言って、はて、と羽ピンは首をかしげる。 【羽居】 「ん? それじゃあ今ごろはもう焼却炉の中ってコトかな?」 「運が良ければね。悪ければもう天に召されてる頃でしょう」 【羽居】 「うわあ。秋葉ちゃん、帰ってきてから一層ひどいコトするようになったねー。あ、わかったぞー、お家でふられちゃったんでしょー?」 「——————ええ、その通りよ。で、羽居はいいの? 今ならまだ間に合うかもしれないけど」 「うーん、もったいないけどいいや。休みのあいだに新しい七つ道具買ってきたし、四代目はごめいふくー」  わりあいあっさり引き下がって、羽ピンは荷物の整理に戻ってくれた。 「——————羽居。解ってると思うけど、私と蒼香のスペースに荷物を置かないでよ」 「うん、わかってるわかってるー」  全然わかってない口振りで返答しつつ、蒼香のベッドの上に衣類を置いている羽ピン。  ……ちなみに、どうして羽ピンが私の机に巾着を置いたかというと———— □羽居の机 ———彼女の机があんな状態だからである。  夜になると予習をするのはいいのだが、私の机に座って“秋葉ちゃんの机きれいでいいなー”とのたまい、時に物置がわりに利用する。  ……私の机の上に、デン、と置かれた巾着袋をゴミ箱に入れたのは当然の行為ではあるまいか。 □浅上女学院の寄宿舎  浅上女学院は由緒正しい名門校だ。  校則は厳しく、その厳しさは寄宿舎においても変わらない。  まず門限の絶対厳守。部活動をしている者は夕方六時、していない者は五時までに宿舎に帰っていなければならない。  六時半になると全員が廊下に並んで、列になって食堂まで移動し、私語厳禁の食事が始まる。  それが終わってから学年毎に浴場の使用時間となり、交友室も開放される。  交友室というのは生徒が自由に使える大部屋で、食後のお茶会やお喋りはここで行うコトになっている。  私物の持ちこみ絶対禁止、という宿舎において、お茶を楽しめるのはこの交友室だけだ。  交友室には宿舎の管理人である職員がおり、彼女に断ってお茶やらお菓子やらを調達する。数に制限はなく無料だが、周りの目を気にしてしまうのであまりくつろげる場所ではない。  交友室を利用するのは中等部の生徒たちと、中等部からあがってきた一年生ぐらいである。  宿舎生活が慣れ、色々と抜け道を熟知してくる二年、三年はなんとか自室にお茶とお菓子を持ちこんでプライベートなお茶会を開く。  宿舎内にはなんとなくではあるがグループが出来ており、週に一度はそのグループのトップが集まる特殊なお茶会があったりする。  もちろんグループ同士は仲が悪いので、どの勢力につくかでこれからの学園生活が変化する。  ちなみに私は生徒会の役員であるから、宿舎内での発言力は低い。  学園では生徒会、宿舎では自治会が幅を利かすのが、浅上女学院の伝統なのだそうだ。  そんなこんなで、それぞれが自由時間たる三時間を過ごすと就寝。  勉強をするのなら十一時まで部屋の電気をつけていられるが、これを額面通りに利用している生徒はいないだろう。 □寄宿舎の部屋  宿舎は三人一部屋だ。  特例として人数の変更は認められており、グループのトップにたつ最上級生たちはみな決まって一人部屋である。  それが選ばれた者の特権だと思っているあたり、この小世界の程度も知れようというものだ。  私は去年、数週間だけ別の学校へ転校していた。  そこは浅上女学院のように外界から隔離された場所ではなく、世間一般でいう校舎だった。  あの統率の執れていない、雑多で混濁した空気は好みではないが嫌いではなかった。  そこで浅上の異常性、否、時代錯誤な所を再認識したせいもあって、私はますます宿舎内の勢力争いに関心が持てなくなった。  ……そうそう。  余談ではあるが、生徒がそれぞれの趣味で食事を決める食堂と、いつでも飲み物が購入できる自動販売機、などというものは浅上にはない。  あれはあれで便利ではあったが、なくて不便というものではない。 ————時代錯誤なのは私もか。  結局、私はこの環境を好ましく思っていた。 □寄宿舎の部屋  生徒会の用事を済ませて部屋に戻ってくると、ルームメイトたちの荷解きは全て完了していたようだ。 「ただいま。帰ってたんだ、蒼香」 【蒼香】 「ああ、つい一時間ほど前に着いたよ。帰ってきた途端、羽居のヤツが部屋を散らかしていて気が滅入ったけどね」  あまり抑揚のない低い声で蒼香は言った。  月姫蒼香。  見ての通り宿舎で一、二を争うほど特徴的な生徒で、かつ私のルームメイト。  私以上に厳格な家に生まれ育った反動か、その趣味はかなり特殊な部類に入ると思う。  とある県の山林王の娘で、実家は寺だという。そういった家系に育った彼女がこうゆう格好をしているあたり、その反骨精神がどれほどの物か想像に難くない。 「……ふうん。その格好をしているって事はライブ帰りなんだ。蒼香も実家でストレスを溜めてきたクチか」 【蒼香】 「そうなんだけど、たまたま入ったトコが最悪でさ、よけいストレス溜まったよ。別に西洋かぶれが王道ってわけでもないけど、ロックと歌謡の区別ぐらいはしてくれないと」  はあ、と重苦しいため息をつく蒼香。  今更説明するまでもないと思うが、彼女は見ての通りのロッカーだ。パンクとかメタルとか種類があるらしいのだけど、私はそこまで込み入った事は知らない。  そもそもライブ帰り?などと口にしたものの、私はそのライブというものを実際に見た事がない。そんな私が音楽を語るなどおこがましいというものだろう。 「憂鬱なのはお互いさまって事ね」 【蒼香】 「ああ。もっともあたしのはおまえさんほど病根が深くはない。あたしのは舐めれば治る傷、遠野のは舐めても治らない傷だろう」  あっさりと深い所をついてくる蒼香。 「まあね」  同じように淡泊に答えて部屋を横切る。  とりあえず自分の椅子に座って、机から絆創膏を取り出す。  あとは切り傷を負った指先に一枚ずつ貼っていった。  一つ、二つ、三つ、四つ。  ……もうっ、この分だと明日には新しい絆創膏を医務室から貰ってこないといけないじゃない。 「それで、二人とも荷解きは終わったんだ? 蒼香は……まあ荷物なんてないだろうけど、羽居は山ほどあったんじゃないの?」 【羽居】 「ふふふ、そうだけどみんなオッケーなのだ。薄情な秋葉ちゃんのかわりに蒼ちゃんが手伝ってくれたんだから、もうあっという間にキレイになっちゃったのでした!」  へへん、と得意そうに胸をはる羽ピン。 「へえ、蒼香ってば人がいいんだ。帰ってきたばかりなのに羽居の面倒見るなんて、真似できないなあ」 【蒼香】 「……だよなあ。どうもこいつの泣き落としには弱くていけない。宿舎で情が薄いのはあたしが二番目っていうのはこのあたりが原因だろう」 【羽居】 「そうなの? 蒼ちゃんが二番目ってコトは一番は秋葉ちゃんってコト?」 「ちょっと羽居。失礼なコト言わないでよね、私は後輩にも面倒見のいい先輩って言われてるんだから。  私が情けをかけないのはあんたと蒼香ぐらいなものよ」 【蒼香】 「ほら、それだ」 「……む。それって何よ、蒼香」 「だからさ、この宿舎で羽居を放っておけるのはおまえさんぐらいなもんだってコト。遠野は相手に非があれば子供でも容赦がないよ」  蒼香はしたり顔で容赦がないよ、なんて断言する。  ……失礼な話だけど、まったくもってその通りなものだから反論できない。 【蒼香】 「中等部じゃあ七不思議の幽霊だって遠野先輩ほど恐くないっていうのが通説だとさ。この分なら三年になる頃は魔よけの札にでも使われるか」  くくく、と男の子のような笑いをこぼす蒼香。 「————そう。私の札じゃ逆効果でしょうけど」  話を切って、今度はシップ薬を取り出す。  こういう時の蒼香は決まって私で鬱憤を晴らそうとしているので、相手にするだけ徒労というものだ。 【羽居】 「あれ? そーいえばわたし、秋葉ちゃんに会ったら言うコトあったんだけどなー」  うーん、と何やら悩みこむ羽ピン。  だが 【蒼香】 「また始まったか。羽居の健忘症はいつもの事だからな、気にしていたら日が暮れる」  と、実に蒼香の言うとおりなので無視する事にした。  私は私で傷の手当てに忙しいので、落ちついた頃に話を聞いてあげない事もない。 【蒼香】 「ところで遠野。おまえさん、さっきから何をやってるんだ?」 「見てわからない?傷の手当てをしてるんだけど」 「……そんなのは見れば分かるよ。あたしが訊いているのはその生傷の原因さ。あれかな、いよいよ上との権力争いが表面化したワケか?」  割合本気の目をする蒼香。  彼女の中では上級生たちとケンカをしている遠野秋葉がこう、勇猛かつ残忍に活躍している事だろう。 「まさか、それはハズレよ蒼香。だいたいね、あの人たちにそんな度胸があったのなら選挙の時に生徒会を掌握してるわ、私」 【蒼香】 「だろうな」  鼻で笑って潔く意見を引っ込める蒼香。 【羽居】 「えー? どうして先輩たちがイケイケだと秋葉ちゃんが得するの? ふつうケンカ売られちゃったらイヤなんじゃないかなー」 【蒼香】 「ああ、普通はね。けど遠野って普通かい、羽居?」 【羽居】 「うーん、秋葉ちゃんは素直じゃないけどいい子だよ?」 「——————————」 「——————————」  瞬間、私と蒼香の呼吸が止まる。  ……この宿舎で羽ピンが無敵、と言われるのは、つまりはこういうコトだ。  力関係でいくと私や蒼香は強い部類に入るのだけど、強い部類に入る人間ほど羽ピンの前では毒気を抜かれてしまう。 【蒼香】 「あー、まあそうなんだけどね。  遠野はちょっと人より血の気が多いだろう?だから向こうからケンカふっかけてくれば、遠野はこれ以上ないっていうぐらい相手をコテンパンにする。これはわかる?」 【羽居】 「あ、分かる分かる! 秋葉ちゃん、相手が謝っても自分の気が済むまで許してあげないもんねー」 【蒼香】 「だろう?けど遠野は自分からケンカをふっかけるほど馬鹿じゃない。こいつが恐怖政治を布かないのはその辺りが原因なんだが、そうなると水面下で勝負をつけるしかないわけだ。  これは表向きは平和だが、内実はドロドロしていて実に面倒くさい。時間がかかりすぎるし、平和解決である以上は勝者も敗者も出ないから力関係が判り難くもある。当選確実だった遠野が生徒会長にならなかったのはそのあたり」 【羽居】 「えーっと、秋葉ちゃん今は副会長だったっけ」 【蒼香】 「ああ。遠野は中等部の頃から高等部と対立してただろう?あれはね、高等部に上がったらすぐに先輩方が表だって潰しに来るように仕向けてたんだよ。  高等部に上がってきたばかりの遠野を先輩方が力で押さえ込む———遠野はそれを期待していたんだが、先輩方は口ばかりで臆病者ぞろいだったんだ。  結果として遠野は上からチクチク責められるだけだったんで、会長ではなく副会長に立候補するしかなかった」 「なんでー? 先輩たちから何も言われなかったのなら会長に立候補してもいいんじゃないかなあ」 「だからさ、それまでに世代交代ができなかったんだよ。  勝負っていうのは野蛮なほど力関係が判りやすいものだからね。情報戦や形式上で世代交代をするより、ガチンコで奪ったほうが後腐れがない。遠野はそれを狙っていたんだけど、先輩方は逃げに回ってしまい、結局今も裏から文句を言うだけってコトかな」 【蒼香】  なあ、と意味ありげな流し目をする蒼香。 「———————————」  ……悔しい。それじゃあまるで私が一番腹黒いように聞こえるけど、これまた事実なので反論のしようがない。  しようがないので、傷の手当てに専念する事にする。  ぺろり、と制服の背中を剥いて、ズキズキと痛む腰にシップを貼った。 「……………………」  あ。蒼香が呆れて私を見ている気配。 【蒼香】 「百年の恋も冷めるな。……まああたしはそれでもいいけど、くれぐれも下級生の前でそんなコトはするなよ。完璧なる遠野先輩!っていうイメージが壊れて来年の生徒会に影響がでたらおまえさんの責任だぞ」  蒼香は肩をすくめて大げさに呆れて見せる。 「薄情ね蒼香。ルームメイトが肌を真っ赤にして苦しんでるっていうのに、まるで他人事みたいじゃない。どうしてそんな傷を負ったのか、なんて心配してくれないんだ」  腕を組んで蒼香を睨む。  蒼香はあっさりと、 「しないよ」  なんて、いつもの調子で返答してくれた。 【蒼香】 「心配なんてさ、他のヤツにはそれなりに意味があるけど、遠野と羽居には無意味だろう。  あたしとしては、むしろおまえさんに傷を負わせちまったヤツの方が心配だ。友人として聞いておくけど、命まではとってないだろうな?」  ……ちょっと蒼香。  なんでそこで、そんな真面目な顔をするわけアンタは。 「失礼ね、そんな野蛮な事するわけないでしょう。だいたい報復する相手なんていないわ。これ、私がかってに転んだだけなんだから」  なに!? なんてお化けでも見たような驚き方をする蒼香。……中等部の子は完璧なる遠野先輩なんて言ってるけど、それを一番信じているのはコイツではないだろうか……? 【羽居】 「そうなのー? 秋葉ちゃん大丈夫—?」  と、羽ピンは羽ピンでいきなり抱きついくるし! 「ああもう、大丈夫じゃなかったら今ごろ医務室に居るでしょうに! 腰打って痛いんだから、あんまり無闇にひっつかないっ!」  ぐいぐい、と抱き付いてくる羽ピンを引き剥がす。  えー、と不満そうに拗ねる羽ピン。  腰に手をあてて痛みを堪えている私を、ケタケタ笑って見ている蒼香。  ……でもまあ、なんとなくホッとした。  このルームメイトたちに囲まれると、一時だけ昏い物思いが胸中から消えてくれる。  思えば私は、これを期待して一日でも早くここに戻ってきたのかもしれなかった。 □寄宿舎の部屋  かすかに窓を開けて風を入れる。  一月の冷たい外気は上気した肌を瞬時に冷ましていく。  熱の残った肌の上に薄い氷の膜が張られていくようで心地よいのだが、ルームメイトたちはこぞって寒い寒いと文句を言っていた。 ———夕食の後。  共同浴場から部屋に戻ってきた私は、まだ乾ききっていない髪をタオルで拭いていた。 「ちょっと、遠野さんいるかしら?」  コンコン、とドアがノックされる。 「………………………」  私は返事をせず、ただぼんやりと窓からの冷たい風と夜の暗さを眺めている。 「いるよ。本人は呆けているけど、それでいいんならどうぞ」  蒼香が私の代わりに返答した。  ドアの開く音。 「お邪魔するわね」  聞きなれた環の声。 「あ、たまきちゃんだー! なになに、お菓子の差し入れー?」  わーい、とはしゃぐ羽ピンの声。 「悪いね寮長、それのたわ言は聞き流してくれ。……といっても肝心のアレはアレな訳だから役には立たないと思う」  蒼香の淡々とした声。  そういった物を無意識に視界から排除して、髪をいじりながら夜を見つめた。 「あら。遠野さん、ああいう人だったっけ」 「ココのところあんな感じだよ。日に日にひどくなるけど今夜はとくに重症でさ、まるで恋する乙女みたいでらしくないだろ?」 「うーん、たしかに。遠野さん、窓から外見てアンニュイするようなキャラクターじゃないもの。逆にああいうコトされると不吉な予感がするわ」 「———環、聞こえてるんだけど」  視線を移さず、そう口にした。 「あ、ちゃんと意識はあるんだ。なら用件だけ済ませておこうかな。  遠野さん、あんたのクラスに四条さんっているでしょう? その子ね、帰ってきてから情緒不安定らしいのよ。昨日から様子がおかしいってルームメイトの子から苦情がきて困ってんだ。寮内ではわたしの管轄だけど、学園の方では遠野さんでしょ。面倒だろうけどそれとなく注意してやってくれない?」 「………………」  そういう用件か、と心の中でため息をつく。  今は自分の事だけで手一杯なのだが、学園に戻ってきた以上無視するわけにはいくまい。  ……そもそも私は生徒会に専念していた為、寄宿舎内のコトは環に任せっきりだった。  彼女とは中等部からの友人で、ともに生徒会にいた事もある。高等部になったらどちらかが自治会……つまり寄宿舎側の組織に入って、学園のつまらない風習を変えていこう、と手を繋いだ仲だ。  まだ生徒会と自治会の仲は険悪だけど、トップである私と環はこうして秘密裏に協力しあっている仲であって、こうした相談ごとをしたりされたりするのが常だった。 「わかった、りょーかい。出席番号八番、四条つかささんでしょう。明日からそれとなく様子を見てみる」 「秋葉ちゃん、つかさちゃんは九番だよ。わたしが十番なんだから、一個前のつかさちゃんは九番でしょう?」  なにやら机(もちろん私の机だ)で作業をしている羽ピンが言う。 「そうだったわね。私、四条さんは興味がないから忘れてた」  素直に間違いを認めて、上の空で返事をする。 「……ちょっと、どしたん? 姫の相棒、生気抜かれてるみたいだけど」  私の放心ぶりが不安になったのか、環はつんつんと蒼香に肘を当てる。 「知らないよ。大方実家から帰ってきて、ひとっ風呂浴びたら気が抜けたんだろう。明日になれば元通りになっているだろうから気にするな」  そうかなあ、と納得がいかない体で環は退室していった。 □寄宿舎の部屋 「———————はあ」  ベッドに横になったまま、うっすらと目を開けた。  空気は冷たい。  寄宿舎の部屋には暖房がなく、冬の空気はそれだけで肌を乾燥させる。  憂鬱に嘆くため息さえも白。  待つだけだった秋が過ぎて、それにさえ慣れてしまった冬も最中。  雪こそ降らないものの、季節は一段と冷たく変貌していっている。 ————この胸の中。     唯一確かな温かささえ凍りつかせるように。 「———————はあ」  横になったまま窓を見た。  暗い天に月はなく、明日も空模様は黒々としたものになるだろう。  いや、こうまでして曇りが続くのなら、いいかげん雪の一つや二つは吹雪いてくれないものだろうか。 「ええ、そのほうがよっぽど」  晴れ晴れとして、少しは心象風景も変わってくれるってものなのに。 「——————髪、伸びたなあ」  自慢の黒髪を掬い上げる。  ……帰らない人を待ち続けて、たったの二ヶ月。  それだけの期間で不安になっている自分が嫌になって屋敷からこの宿舎に戻ってきた。  転校から転校を一週間足らずで行って、屋敷から逃げるように宿舎暮らしに戻ったのが十一月。  それでも週末には必ず屋敷に戻り、今回の冬季休暇だって屋敷に戻って過ごしてみた。  もちろん、それは私の不安を強くしただけにすぎない。  屋敷には思い出が多すぎる。  玄関で物音がするたびに駆けつけて、夜中、廊下に気配を感じては部屋を出る。  もちろんそれらは琥珀か翡翠の足音で、目的の人影が現れたコトなんて一度もない。  幻視さえない。  こうゆう時、徹底したリアリストというのは考え物だ。 「……思い出した。それが嫌で、少しだけらしくないコトをしようと思ったんだっけ、私」  綺麗に整頓しなおした机に視線を移す。  昨日、そこに置かれていた紫の封筒。  アレは私の弱さで、蒼香に言わせれば少女らしい一面でもある。 「———————はあ」  ……ここ最近、夜になると私はため息ばかりついている。  胸には不安がつまっていて、それを少しでも外に吐き出そうとしているせいだろう。  ……それはあの人が帰ってこないのではないか、なんていう怖れではない。  不安の正体は一つだけ。  こうして待ち続ける焦燥を、いつか当たり前のように感じてしまいそうな自分に対する怖れだった。  そろそろ話は本題に入る。  厄介事というのは予告もなしにやってくるから厄介事であり、つまるところ何の対策も立てられない。  そうして起きてしまった物事は放っておいても終わる物なのだが、多くの人はより早く終わらせた方がいいと考える。  いずれ終わるものなら早くて簡単に済むほうがいい、という事だろう。  私もそれには同感だから、結局自分から奔走する事になる。  けれどその前に一つだけ。  そうして起きてしまった厄介事にトドメを刺す、という事は“問題を解決する”という事ではなく、その大抵が手早く後始末するだけなのだ、という事を覚えておいてもらいたい——— □寄宿舎の部屋 【蒼香】 「遠野、外にお客さんがいる」  授業を終えて部屋に戻ってきていた私に、同じく校舎から戻ってきた蒼香が言った。 「……? お客って、私に?」 「昨日の続きだと思う。部屋に通すけどかまわないな?」  蒼香はドアを開けたまま、いいよ、と廊下に向かって声をかけた。 【四条つかさ】 「………………」  蒼香に促されておずおずと入ってきたのは、さっきまで同じ教室にいた生徒だ。  名前は四条つかさ。出席番号九番、部活動歴はなし、そのかわりにクラス委員をしている優等生だ。 「どうぞ座って。ここまできたって事は教室じゃ言えない話なんでしょう? 長話になるのでしたらお茶でもいれましょうか」 「……いえ、結構です。あの、つまらない話ですから、どうかお構いなく」 「やっぱり? 私もそうじゃないかって思ってたところよ。ええ、一応聞いておいて正解だったわね、せっかく用意したお茶が飲まれずに残ってしまう、なんて事にならずにすんだもの」 「…………………………」  四条つかさは一層深く俯いてからクッションの上に正座をした。 【蒼香】 「——————————————」  蒼香は何か言いたそうに私を一瞥した後、間仕切りのカーテンを引いて着替え始めた。 「それで、用件はなんなのかしら四条さん」  単刀直入に訊く。  四条つかさは俯いたままで中々顔をあげない。おそらく、この部屋のカーペットの柄が気に入りでもしたのだろう。 「——————————」  とりあえず何も言わず、四条つかさの悪い趣味に付き合う事にした。  ……。  ………。  ……………。  ……………………そうして、お互い無言でカーペットを眺めてからきっかり五分と二十秒後。 【四条つかさ】 「あの、遠野さんは七不思議を知ってる……?」  四条つかさは、少しばかり私の興味を惹くような発言をした。 「———一応噂だけなら。寄宿舎の空き部屋にある壊れた電話とか、校舎の展望台とか、そういった物でしたっけ。ああ、あと裏庭にあるポストとか、なんとか」 「そう、それ……! 遠野さんはそのポストの話を詳しく知ってる……!?」  彼女は憑かれたように声を荒だたせる。  ……私は知っていながら、さあ、と首を横にふった。 「……そっか。遠野さん、そういうのに興味なさそうだもんね」 「ええ、残念ながら。けれど四条さんには意味がありそうね。———用件というのは、そのポストの話なわけ?」 「……………」  四条つかさはまたも俯いてしまう。  が、今度は黙っているという事はなく、下を向いたままでぽつぽつと話を始めた。 ————それは、ようするに怪談話だった。  古い学校にはなにかしら因縁めいた逸話が出来ている。  曰く、標本室にホルマリンづけの胎児がいるとか、  曰く、壊れた赤電話から死者の声が聞こえるとか、  曰く、宛名のない手紙を届けると願いが叶うとか。  四条つかさの話はその中でも比較的穏やかで、イまでも一部の生徒たちが気慰みで行っているという七不思議の一つだった。  ……まあ、恥ずかしい話ではあるのだが、要約するとこういう事になる。  この寄宿舎にはポストが至るところに存在する。創立時の名残らしくて、各階の両端にあったり受付の横にあったり中庭にあったり、と歩いていればポストにぶつかるほど点在している。  その中でも一つ、最も古いと言われているのが裏庭のポストだ。  どうしてそんな話になったのかは知らないが、そのポストに、その……紫の封筒で、しかも自分の名前も宛名も書かず、願い事を一つだけ書いた手紙を入れる。  そうしてその手紙が自分の許に返ってきたなら、大切な物と引き換えに手紙に書いた願いが七日後に叶う、という、まあその、実に女学院らしい愛らしい怪談だ。  ……もはや言うまでもないと思うけど、四条つかさに説明されるまでもなく私はその怪談をよく知っているのではあるが。 □寄宿舎の部屋  ポスト……七不思議でいうのなら紫の私書箱というらしい……の説明を終えて、四条つかさはまた黙り込んでしまった。 「ふうん———ようするに返ってきたんだ、四条さん」 【四条つかさ】 「————!?」  びくん、と体を震わす。……はあ。自分の問題だけでもややこしいっていうのに、どうしてまたこんな相談を持ちかけられるのだろう。 「と、遠野さん、どうして————」 「会話の流れから言ってそれしかないでしょう。七不思議の真偽はともかく、手紙が戻ってくる、という事態は無いとは言えない。四条さんが手紙を送って戻ってきた、というのならそれは真実でしょう?  七不思議なんていう怪談を信じる信じないはまた別の問題よ」 「………………」  おどおどと視線を下げる。  どうも彼女は本気で�紫の私書箱�の逸話を信じているようだ。 「なるほどね、それで態度がおかしかったわけ?  四条さんは教室ではもっと覇気のある方でしょう? ですからイメージが合わなかったのですけど、これでようやく合点がいったわ。ここまで臆病になっているという事は、手紙が返ってきてから数日が経過しているってコト?」 「……うん、手紙が返ってきたのは三日前。わたし、宿舎が開放される日に帰ってきたんだけど、そうしたら机の上に紫の封筒が置いてあったの」 「————そう。どこかで聞いたような話だこと」  ため息まじりに呟く。 「……?」  意味のない独り言だとでも思ったのか、四条つかさは不審げに首をかしげるだけだった。 「それで? 王様の耳じゃあるまいし、ただ話を聞いて欲しかっただけではないでしょう? 四条さんは何の目的で私にそんな話を聞かせるんです?」 「………………」  言い辛そうに俯く。  ……私はそう気が長い方ではない。いつもならこれだけはっきりしない相手には怒鳴りつけているものだけど、今回は少しだけ事情が違った。  ……まあ、その。他人事ではないというか、参考までにご同輩が何を言い出すか興味があるというか、そんなトコロだ。 「……わたし、困る」  そうして、喉から搾り出すような声で彼女は言った。 「だって七不思議なんて信じていなかった……! あんなのただの遊びだと思って、軽い気持ちで手紙を入れただけよ……!? なのに返ってくるなんて困る……! だって、もし————」  で、またも視線を下げて、上目遣いで私を見たあと。 「……もし願いが叶ってしまったら、わたし……遠野さんに申し訳なくって」  なんて、まったく要領を得ない言葉を口にした。 「———四条さん。もう少し順序だててお話をしていただけないかしら。今のままだと夕食の時間になってしまうわ」 「……わたし、消えてくれたらいいなって思っていただけなのに。ただ、そんな益体もない事を文字にしただけなのに、叶ってしまうなんて事があるのか分からなくて———」  もうっ、話を始めたら始めたらで全然人の話を聞かないし! 「つまりこういう事? 四条さんは開放日に帰ってきたら机の上に紫の封筒が置かれていた。……という事は手紙を裏庭のポストに入れたのは休校前ね。  それで宛名も差出人の名前もない手紙は自分の所に戻ってきていた。そうして都合の悪いことに、手紙の内容は“誰かを消してしまうような”願い事だった。  ただの遊び気分だったのに、これでは気分が悪い。  だから————」  だから、なんだろう。  そこまで要約しておいて、その先に続く言葉が思いつかない。 「……うん。だから遠野さんなら解決できるんじゃないかなって」 「———ああ、そういう事。今のままじゃ気分が悪いから、問題の七日目までに手紙の謎を解明してもらいたい、と」  なんだ、そうならそうと早く言えば良かったのに。  そんなのは一言で済むコトなんだから、まったく時間を無駄に——— 「って、ちょっと待ってよ。なんだって私が四条さんのゴタゴタに首をつっこまなくちゃいけないわけ?」 「……だ、だって、遠野さん中等部の頃からこういう話には強いって言うし、あと四日しかないんだし、遠野さんに言っておけば大丈夫かなって……」  上目遣いで私を見る四条つかさ。  なんか、彼女は返ってきた手紙なんかより私の方を恐がっているように見えるのは気のせいか?  ……まったく色々な意味で失礼な話である。 「————————————」 「………………………………」  腕を組んで黙り込む私と、おどおどと見上げてくる彼女。  ……はあ。  こうしていても埒はあかないし、何より彼女の話は他人事ではない。  あと四日しかない、と彼女は言った。  手紙が返ってきてから七日後に願いが叶う、というのが紫の私書箱の通説だ。  その例に倣うと、彼女も———そして私も、あと四日で願い事が叶い、その代わりに大切な物を失うコトになる。  もちろん、それらは七不思議が本当にまじないとして機能していたらの話ではあるが。 「……いいわ、私の方でも調べてみる。誰かの悪戯だと思うけど、その犯人が判れば四条さんも安心できるでしょう?」 「…………うん、お願い」  四条つかさは幽霊のように立ちあがって、のろのろと部屋から出て行った。  入ってきた時も元気がなかったけど、出ていく時は二倍増しで元気がなかった。 「なによそれ。勝手に相談してきたんだから、出ていく時ぐらいは晴れやかな顔していってほしいもんだわ」 【蒼香】 「また随分と特殊な話を」  カーテンを開けて蒼香が顔を出す。  なにしろ薄布一枚の壁だったんだから、私と四条つかさとの会話は筒抜けだったのだろう。 【蒼香】 「羽居がいなくて良かったな。あいつがいたらさらにおかしな方向に話が進んでいた所だ」 「ああ、そういえばそれだけでも僥倖か。……で、その問題の人物は何処に行っているの? あの子部活動してないから私より先に戻ってると思ってたけど」 「さあ。なんでも先輩方からまたアルバイトを引きうけてるらしい。宿舎に戻ってくるなり仕事がつまっていたらしくてね、七つ道具がどうとか言ってなかった?」 「……言ってた。もう、三年もいいように羽居を使うんだから。あの子が断れない性格だって知っててやってんだから頭にくるなあ。ちょっと行って連れ戻してくる」 【蒼香】 「やめておきなよ。あとたった三ヶ月だっていうのに、今更上と衝突する原因を作っても仕方がないだろう。羽居は好きでやってるんだからおまえさんが出張る筋じゃない」 「わ、分かってるわよそんなコト。ただ私は三年の腐った性根が気に食わないだけであって、たとえ騙されてたって羽居が好きでやってるなら———」 【蒼香】 「ふーん」 「………なによ、その目」 「いや、遠野は身内には過保護なんだなって。他人には冷たい分、味方には大甘なわけだ。中等部の生徒会役員が懐くのもそのあたりが要因か。なにしろ麗しのお姉さまだからな」 「———うるさい。アレに関しては私が一番迷惑してるんだから話すな」 【蒼香】 「っと、失言だったか」  きしし、と意地の悪い笑いをこぼす蒼香。  ……うう、おかげで忘れたかった出来事を思い出してしまった。頼りにされるのは悪くはないけど、懐かれるのは苦手。だっていうのに、新しい中等部の役員はこぞって付きまとってくるから対処に困る。 【蒼香】 「で、遠野は四条の相談事を引きうけるわけね。七不思議を調べるって言ってたけど算段はあるのかい?」 「無ければ引きうけない。……けど一つだけひっかかる所があってさ、ちょっと納得いかないなあって」 「ふうん? なに、引っかかる部分って」 「それが、なんで私なのかしらって。別に私、四条さんと親しくはないんだけど」 「————————————」  口元に人差し指をあてて虚空を見つめる。  と、蒼香は言葉を呑んで、ハッ、と笑った。 【蒼香】 「四条は誰かを消してくれるように願って、本当に手紙が返ってきてしまったから驚いたんだろ? 自分の遊びみたいな願いで人間に消えられては後味が悪いからってね。  だからまず、その消えてしまうかも知れない人間に話をもちかけて注意を促したわけだ」 「———ちょっと待ってよ。つまり、それって」 【蒼香】 「そう、おまえさんだよ」 「———————————」  ……絶句。 【蒼香】 「四条が消えてほしいと願ったのは遠野秋葉なんだよ。だっていうのに七不思議の解明を引きうけてやるあたり、おまえさんも懐が広いコト」  ま、胸はまっ平らだけど、と凄まじい言葉を付け足して、蒼香はクスクスと笑っていた。  夕食が終わってお風呂を済ませた後、恒例のお茶会とあいなった。  今日の議題は言うまでもなく七不思議の事である。 「そんなのは迷信だよ」  七不思議についてどう思う? と話題をふった瞬間、蒼香は一言の下に切って捨てた。 「えー。そんなコトないよー、七不思議はホントにあるんだからー」  なにやら忙しそうに内職をしつつ、羽ピンは蒼香の意見に反論する。 「ほう。すると羽居は七不思議のどれか一つでも見たっていうんだな」 「ううん。やだなあ蒼ちゃん、わたしが恐いの苦手って知ってるでしょー? だから七不思議なんて、祟られちゃうようなのを見ようと思ったコトなんかないよー」 「……安心しろ羽居。幽霊っていうのは素質があるヤツにしか取り憑かないんだ。おまえさんみたいなのは向こうの方から逃げ出すよ」 「そうなの? やったあ、それじゃあ帰り道にお墓を通ってもオッケーだねー」 「……蒼香。頼むから羽居と話をするのは止めてくれない? 話が進むどころか違う所に行っちゃうから」 「……そうだった。以後、気をつける」 「ひっどーい、二人ともいつもわたしだけ仲間外れにするんだからー。いいよ、後でお願いされたって助けてあげないからねっ。わたしは先生方に頼まれたお仕事で忙しいのだ」  ちょきちょき、とハサミで色紙を切っている羽ピン。  ……そうか、あの内職はクラス委員の仕事だったのか。 「———で、おまえさんはどう思ってるんだ? 四条にはああ言っていたが、怪談話は信じる方か?」 「………………」  実は信じる、というか私はそちら側のモノだ。  呪いも祟りも、しかるべき機構を用意すれば発動すると信じている側の人間。  けれど———— 「まさか。紫の私書箱なんて、何かの後日談に尾ひれがついたものでしょう」 「うん。この学園、歴史は古いけどこれといって血なまぐさい過去があるわけでもないんだ。化けてでる幽霊の一つもないでしょうし、その理由もない筈だものね」  あ。珍しいな、蒼香が女の子口調になっている。 「それじゃ蒼香も私と同じ意見?」 「当然だろう? 四条の話は猫が空を飛んでいたとか、死者の声が聞こえたっていう話じゃない。……差出人のない手紙を差出人に返す、というのは厄介な問題だが、そこをクリアすれば誰にだってできる悪戯だ。七不思議でもなんでもないよ、これは」 「そうね。明日、四条つかさの身辺とポストを調べればおのずと解決する問題か」  ごもっとも、と頷く蒼香。  羽ピンはまだ、七不思議はほんとだよー、と抗議しながらちょきちょきとハサミを動かしている。 「羽居。ところで、それ何作ってるの?」 「これー?驚いちゃダメだよ、なんと秋葉ちゃんと蒼ちゃんを作ってるのです」  えっへん、と胸を張る羽ピン。  ……たしかに彼女が切っては厚紙に貼っている色紙はヒトガタに見えなくもない。  そうして、厚紙の上には“ここ・生徒会室”と明朝体が書かれていた。 「———————————」 「———————————」  蒼香と無言で視線を合わせる。  ……誰が頼んだか知らないけど、コイツにプレートを頼むなんてうちの教員はよっぽどのアレか、よっぽどシャレが利いているかのどちらかだろう。 □寄宿舎の部屋 「————————はあ」  また目が覚めた。  不眠症の記録は目下更新中。この分ではいずれどこかの本に載ってしまうかもしれないぐらいだ。 【四条つかさ】 □寄宿舎の部屋 「………まったく。自分のコトだけで手一杯だっていってるじゃない」  いい迷惑だ、と呟きかけて蒼香の言葉を思い出した。 ———おまえさんは他人には冷たい。  ……それは、きっとその通りだ。  私はもともとそういう人間。いや、あの人がいなかったら誰にだって冷たい人間だっただろう。  私はもとから冷たいカタチをしている。  誰かから慕われる事なんてありえないし、ありえないと思っていた。  それがこんな、人並みに色々と厄介事を楽しむようになったのはいつからだろう。  ……嫌われたくなかった。  遠野の血を継いでいる以上、私はどうあっても同じにはなれない。  すべて無駄だ。どんなに取り繕った所で同じものになんてなれないのなら、違うという自分を認めて壁を作る。それこそが私たちのようなものの生き方、自己を守る方法だと理解していた。  けれど、嫌われたくなかったのだ。  だから冷たい自分のまま、気の向くかぎりあの人の真似をしていただけ。  誰かに笑いかけて、誰かを笑わせてあげていれば、気持ちぐらいは同じになれると思ったのだろう。  そうして私は偽装した。  けれどその偽装は思いのほか楽しくて、いつのまにかどこからが芝居でどこからが本音なのか分からなくなって、いつのまにか遠野秋葉という自分がここにいる。  私は、結局。  自分は冷たいカタチなのだ、なんて強がっていただけで、よく見れば割合温かい所を持ち合わせた人間だったのかもしれない。  それでも、  私が人の体温を温かいと感じるようになったのはあの人のおかげだ。  遠野秋葉にとってあの人はかけがえのない半身。喪ってしまえば私は昔、そうなるしかないと意固地になっていた私に戻ってしまうだろう。 「——————はあ」  だから、自分のそんな甘い部分に誘われて手紙を出した。  紫の封筒を用意して、願い事を孵すというポストに手紙を入れた。  ……ただ、やっぱりこんなものは願掛けの一つだと思っていたから、手紙には何一つ書かなかった。  封筒の中身は白紙。  ……もし七不思議が真実で、紫の私書箱の祟りとやらが実在したのなら、遠野秋葉は随分冷たい人間に思われただろう。 「————————」  手紙が戻ってきた時、少しだけ思った。  願いは白紙。  何も望まないくせに願いをかけてしまった私に、かみさまが罰を与えようと手紙をつっ返してきたのかも、と。 「……はあ。どこの乙女だろう、これ」  さらり、と流れる黒髪を梳く。  ……もう眠ろう。結局まどろんでばかりで満足に眠れないだろうけど、目蓋を開けているよりはましだ。  キシキシと部屋が軋む。  乾燥した冬の大気が、木造の宿舎を責める。  そんな中で、ふと思った。  大切なモノと引き換えに願いは叶う。  なら、私の大切なものはあの人だ。  あの人を失うかわりにあの人が帰ってくるなんて、そんなものは契約違反だと思う。  なら———もし失うとしたら、それは私の命だろう。  いや、それならばこの黒髪か。  ほら。  昔から、髪は女の命って言うじゃない———— □浅上女学院の教室  何事もなく午前中の授業は終わった。  四時限目が選択授業だっただけあって、教室は閑散としている。  今教室に残っている生徒が選択した科目は現社・経済。たいていが大会社の一人娘という浅女においては必須とも言える科目だ。  だというのに参加している生徒の数は少なく、私をいれて十名ほど。  残りの十五人は調理実習と音楽の授業を受けている。 【羽居】 「あ、秋葉ちゃんだー。げんき、ケガしてないー?」  ……と。調理実習に行っていた羽ピンが帰ってきた。  彼女はにぎにぎと手の平を開いて閉じる、を繰り返している。 「元気も何も、さっきまで一緒だったでしょう。なんだってそんな事訊くのよ、アンタは」 【羽居】 「んー、だってねー、さっき実習室でケガ人さんがいっぱいでちゃったんだよ。ぱんっ、ってお鍋が爆発したんだけど、みんな驚いて膝うったり転んだり指切ったりしちゃったの」 「そ。今まで包丁一つ持ったことのない連中が今更調理の真似事なんかするからそういう目に遭う……って、羽居。指切ったって、包丁で?」 「うん、けっこう血が出てたよー。四条さん、今ごろ医務室なんじゃないかな」 「なに、指を切ったのは四条さんなの?」 「うん。いたそーだった」  しょぼん、と暗い顔をする羽ピン。 【羽居】 「わたし医務室行ってくるー」  何を思い立ったのか、羽ピンは教室を後にした。 「—————そう。四条さん、ケガしたんだ」  呟いて、自分の手を流し見る。  指に巻かれたバンドエイドは五つ。  別にどうという事はないのだけど、私も寄宿舎に帰ってきてから生傷が絶えない身だった。 □浅上女学院  午後の授業が終わって、とりあえず寄宿舎に戻る事にした。  校舎の方での調べ物もあるが、先に例のポストをもう一度調べて見る必要があるからだ。 □浅上女学院の寄宿舎  校舎から寄宿舎までは歩いて十分程度。  高い塀で囲まれた寄宿舎だが、校舎からは直通の通路が設けられているので学校の一部という方が正しいのかもしれない。  浅上女学院に入学した生徒は都合六年間、この隔離された空間で青春を過ごす事になる。  ……週末には実家に戻る私や気ままに外に出る蒼香、大人しい顔をして実は外泊常習犯の瀬尾などは特殊な部類に入るだろう。 □浅上女学院の裏庭 「————————ない」  裏庭にはポストが無かった。  冬季休暇に入る前にはたしかにあった、古い木造私書箱は跡形も無くなくなっていた。 「……撤去した形跡は……」  草むらを調べてみたけど、もとより一度しか来ていなかったコトもあって、はたしてドコにポストがあったものやら。  ……こうやって探していると、もとからあのポストが存在していたかどうかさえ怪しくなる。 「———まさかね。あんまりにも古いんで誰かが撤去したんでしょう」  そう結論を下して校舎へ戻る事にした。 □浅上女学院の生徒会室  生徒会室には誰もいなかった。  休み明けという事もあり、来週になるまではここに役員が集まる事はないだろう。 「……そうよね。高雅瀬あたりがいたら助かったんだけど、みんなまだ休みボケか」  同じ一年生であり書記の高雅瀬は無類の噂好きで、学園内のゴシップには事欠かない人物だ。  彼女がいたのなら事は早かったのだが、いないのでは仕方がない。……というか、あの牛乳の瓶底のようなメガネで機関銃のように喋る彼女は苦手だ。彼女に質問するのが合理的とは言え、出来れば出会わずに済ませたい。 —————と。  ガチャリ、とドアノブが回った。 【アキラ】 「あ、あれ、遠野先輩……!?」  生徒会室に入ってくるなり、その下級生はびくりと体を震わせた。 「あら、新年早々生徒会室にやってくるなんて立派ね。とりあえずあけましておめでとう、瀬尾」 【アキラ】 「あ、はいっ! あけましておめでとうございます、遠野先輩!」  下級生は元気のいい礼をする。  この子は瀬尾晶。  中等部の二年生で、生徒会では会計を務めている。  冷静さを欠く所はあるものの、思考の速さと勘の良さはとび抜けており、纏め役にはなりえないけれど補佐役としてはおそらく一番の有望株だ。  ムードメーカーでもあるし、彼女がそこにいるだけで会議も円満に進む。 ———まあ、そんな事は実はどうでもいい。  遠野秋葉はこの下級生を可愛がっている、と噂されているが、それを否定するつもりはまったくない。  瀬尾の、このどことなくいじめてみたくなる小動物性というか、手懐けたくような雰囲気が私は大のお気に入りなのだから。 「……あの、遠野先輩? 今日はどういったご用件でしょう? えっと、まだ生徒会は始動してないと思うんですけど」 「私? 私は調べごとがあって立ち寄っただけよ。……そうね、ちょうどいいわ。こういう話は高等部より中等部のほうが本格的ですものね」 【アキラ】 「うっ……な、なんですか、遠野先輩」 「そう逃げ腰にならなくてもいいのよ。別に瀬尾に関係のある話ではないから、もっと気を楽にして」 「は、はい、努力しますっ」  びしっ、と瀬尾は背筋を伸ばす。  私が楽にしろ、と言えば言うほど瀬尾は緊張するようなので、とりあえず放っておこう。 「つまらない話なんだけど。瀬尾、あなたうちの七不思議については詳しい?」 「え……七不思議、ですか?」 「そう。首吊りの鐘とか動く庭園とか、そういった噂話。私が聞きたいのはそういった大掛かりな物じゃなくて、裏庭のポストの事なのだけど」 【アキラ】 「あ、それって紫の私書箱のコトですね?」  話題が本当に他愛のないものだと分かったのか、瀬尾は一転して顔を輝かせる。  ……はあ。この子のこういう、裏表のない動物的な感情表現にはいつも参る。  ここまで無邪気な子を見ているとムチャクチャにしてやりたい、なんて嗜虐心が沸いてくるのを理性で抑えなければいけなくなるからだ。 「そう、その私書箱の事よ。瀬尾はその話については詳しい?」 【アキラ】 「えっと、どうでしょう? もともとは学園側が用意したアンケート箱だったって事は知ってますけど、それがどうして七不思議になったかまでは知りません」 「ふうん、あれって学園側が用意したものだったんだ。驚いたな、よくそんな事を知っていたものね、瀬尾」 【アキラ】 「え———えへへ、なんか照れちゃいますけど、実は校則違反の罰として倉庫の整理をさせられてた時に聞いたんです。  宿舎って就寝時間が早いでしょう?そんなんじゃもう原稿が間に合わなくなって、トイレで作業してたら先生に見つかっちゃいまして」  嬉しいのか恥ずかしいのか、瀬尾はむにゃむにゃと笑顔を作る。……やば、まずいぐらい可愛いぞ、コイツ。 「———そう。あなたの事情は知らないけど、それで罰を受けたという事ね。その罰当番は郵便物の整理だったの?」 【アキラ】 「そうなんです。その時一緒に作業していた先生が教えてくれたんですよ。もともとアレは生徒が学園に要望を送るポストだったんだって。だから差出人の名前は書かないんです。ほら、アンケートって名前は書かないでしょう?」 「そうね。アンケートなら宛名も不用だから、手紙は自然内容だけの物になる。けど紫色の封筒、というのは何か意味があるの?」 「あったみたいです。ほら、今はアンケートって授業の一環になってますけど、昔はいつでも自由に、生徒が学園側に何々をこうするべきだ、って提示できたものだったんです。その受け口がポストだったワケですけど、普通の手紙と区別できるように紫の封筒を使ったそうです」 「……なるほど。紫の封筒ならそのまま職員室に託送されるワケだったんだ」  ……ふん、理に適っている。それがどうして七不思議にまでなったのかは不明だけど、とりあえず次に行くべき場所は決まった。 「それじゃ今まで投書された手紙はきちんと保管されている筈ね。図書室?」 「あ、はいっ! 第二図書室の管理人室の、えっと……たしか東側の棚の下のほうでした」 「そう、相変わらず大した記憶力ね。助かったわ、ありがとう瀬尾」  瀬尾に礼を言って生徒会室を後にする。  そのまま職員室に足を運んで、生徒会権限を振りかざして図書室の鍵を入手した。 ———時刻はじき夕方になる。  寄宿舎の門限まであと一時間足らず。調べ事にはいささか心もとない時間だけど、足りなくなるという事はないだろう。 □浅上女学院の図書室  第二図書室に人影はない。  もともと学校側の倉庫が長じて図書室になったようなものだから、生徒受けが悪く客足も少ないのだろう。 「って、客足って言わないわよね、こういう場合」  無駄口を叩きながら図書室を横断する。  瀬尾の言っていた管理人室は図書室の奥にある。  東側も何も、管理人室には東側しか棚はなかった。  とにかく狭くて棚は一方向にしか置けず、通路は人が一人歩ける程度。部屋は縦長で、それでも私の部屋のベッドが入るか入らないかの大きさだった。 「————あった」  下の棚を開けると、そこは一面紫の世界だった。  宛名も差出人の名前もない紫の封筒があるわあるわ、ざっと目算して三百通は下るまい。 「……ふうん。まあ、或いはこれなら」  呪、もしくは念が宿るのかもしれない。  何の意味もなく、それらが有象無象の雑多な願いにすぎなくて、そして、ここまで蒐集されてなお人目につく事がなければ、さぞ無念が生じるだろう。  無念である以上、それは念だ。  想念の類は些細な軋みで発火し、長い長い年月をかけて燻りいつかは目に見える火になる。  だが—————— 「……そも、この学園にはその軋みがないものね。術式めいてはいるだけでは何も起きる訳がない、か」  それでも一応、数ある手紙の中に呪いになるような偶然はないかと目を通す。  一時間ほどかけて、結果は白だった。 「—————はあ」  ……ついため息が出てしまった。  七不思議を解決するも何も、問題なんて起きていない。始めから七不思議の真偽など確かめず、ただ四条つかさと遠野秋葉の許に手紙を返した犯人を突き詰めれば良かったのだ。 「……ほんと。何してるんだろう、私」  有り得ないと思いながら、心のどこかでこの七不思議が真であることに期待していたのか。  こんなコトで願いが叶って、本当にあの人が帰ってきてくれるとでも———? 「———————罵迦」  棚を押し戻して立ちあがる。  と、そこで棚には張り紙がしてある事に気が付いた。 「……近日焼却……?」  読んで字の如し、この名前のない封筒は近いうちにゴミとして焼却炉に呑まれる予定であるらしい。 □浅上女学院の図書室  外はすっかり茜に染まっていた。 「いけない、急がないと」  宿舎の門限に間に合わない。  それでも図書室を駆け出す、というのははしたないのであくまでいつも通りに歩いていく事にした。  —————と。 □浅上女学院の図書室 「—————驚いた」  目の前に本、じゃなかった、本棚ごと倒れてくるなんて、珍しい事もあるものだ。  もし時間に急かされて駆け出していたら、まずこの下敷きになっていただろう。 「うーん……これも幸運、というのかしら」  いや、そもそも不幸だってば。  ここ数日は階段で足を滑らせたり、いつのまにか指が切れていたり、とかくついていないような気がするのだから——— □寄宿舎の部屋  夕食を終えて夜。  裏ルートで流れてきた紅茶やら洋菓子を楽しむ時間になった。 「ねえ羽居。四条さんの怪我、どうだった?」 「んー、いたそーだった。中指の真ん中あたりにね、ざっくり十センチぐらい切ってたよ」  羽ピンはまだアルバイトが終わらないのか、今夜も内職にかまけている。 「……もう少し詳しく教えてくれない? 例えば縦の傷なのかな、それとも横なのかとか」 「遠野。縦だろうが横だろうが、十センチ切られてくっついている指はないぞ」 「……………」  蒼香の意見はもっともだ。  羽ピンの言を鵜呑みにすると、四条つかさは今ごろ四本指という憂き目にあっている事になる。 「———羽居。私は真面目に訊いてるんだけど」 「えー、わたしもまじめだよー? ちらっと見たらそれぐらいいたそーだったんだから!」 「羽居は人の十倍痛がりだから、ようするに一センチという事かな。……それにしても深いね、それは。実習中の事故で片付けられるものじゃない」 「うん、きっとすっごく痛いんだよ。四条さん、手当てされながらぶるぶる震えてたもん。どうしようどうしようって困ってた感じ」 「——————————」 「——————————」  蒼香とつい視線が合う。  四条つかさとの一件を知らない羽ピンはともかく、私と蒼香は彼女の事情を知っている。  これは調理実習中に指を切っただけの話。  けれどタイミングが悪いというか、そう真剣に七不思議と結びつける事はないと思うけど、それでも彼女にとっては少しばかり気味の悪い符合になりはしていないか——— 「大丈夫だろうさ。おまえさんが気に病むことじゃないよ」 「……分かってる。ただ、タイミングが悪いなって思っただけだから」 「んー、なんか秋葉ちゃん元気ないねー。あ、わかった! お兄さんのコトでしょー!」 「——————!」  ……危ない危ない。あやうく口に含んだ紅茶を戻してしまうところだった。 「……羽居。どうしてそう、何の信憑性もない話をするかな、アンタは」 「えー? だって秋葉ちゃん、お兄さんに会うために転校しちゃったんでしょ? なのにすぐ帰ってきたから、お兄さんとケンカしちゃったのかなーって」 「………………ちょっと。その話、どこのどいつから聞いたのよ、羽居」 「ん——————そこのそいつー」  びし、と蒼香を指差す羽ピン。 「………さて、あたしはそろそろ寝ようかな」  そろそろとベッドへ逃げこもうとする蒼香。 「———待て、そこのお喋り女」  襟首を掴んで蒼香を引き寄せる。  蒼香は学年でも五指に入るほど小柄で、くわえて羽根のように軽い。単純な腕力勝負ならこの通り、簡単に拘束できてしまう。 「まいったなあ。あんな、遠野秋葉はブラコンだのなんだのと有ること無いこと言いふらしたのがアンタだったとは意外ね、蒼香。なに、こういうのって獅子身中の虫っていうのかしら?」 「えへへへへ、ぶるーたすよオマエもかー!」 「そこ、うるさいっ!」  能天気なギャラリーにスリッパを投げつける。 「あいたっ」  倒れるギャラリー。よし、命中だ。 「それで蒼香、どう落とし前つけてくれるワケ、アンタは? 学園に戻ってからこっち、兄さんを知りもしない他人から関係を邪推され続けてきた私の憤慨をイチミリでも分かってくれていて?」  蒼香の腕を掴んだまま顔を近づける。  こっちが本気だと分かったのか、蒼香は珍しく顔をひきつらせていた。 「い———いや、誤解だ遠野っ! あたしはただ、羽居が淋しがっていたから慰め話として話してやっただけなんだ。別に面白がって学園中に言いふらしたわけじゃないっ!」 「あのね、羽居にバラした時点で学園中に知れ渡るようなもんだって解ってたでしょうが、アンタは!」 「う————すまん。遠野は戻ってこないもんだと思って、つい口が滑ってしまった」 「そう、そんなコトぐらいで滑る口はこの口ですか、このっ……!」 「いた、いたたたた……! 何をするおまえ、不可抗力の事故の咎を暴力でつけようなんてらしくない!いつもの理路整然としておまえさんは何処にいった!?あっちか?それともいつも眺めている窓の外の森あたりか!?そんなだから兄貴に振られて帰ってきた、なんて噂を立てられるんだぞ、みっともないっ……!」 「———ふ、ふふふ、ふふふふふふ……! 蒼香ったら、この期におよんで余裕があるじゃない……!」  ぎりぎりぎり、とお互いの腕に力がこもる。  合気道やらなにやら、ともかく得体の知れない体捌きと変幻自在の足技を持つ蒼香も一度掴まえてしまえば小柄な少女でしかない。  いつもはのらりくらりとかわされるけど、今回は私の勝ち——— 「うわー。秋葉ちゃんったら、蒼ちゃんを犯しちゃう気だー」 「———————」  がくん、と全身の力が抜けた。  その隙をついてするりと腕を解きベッドに飛びこむ蒼香。 「ばかものっ、頭を冷やせ! 確かに羽居におまえさんの兄貴について話したのはあたしが悪い。そりゃああたしが悪いが、上の連中に好き放題言われてるのはおまえさんがいつまでも消沈しているからだろう!」  耳まで真っ赤になりながら、シャッ、とカーテンを閉める蒼香。 「うーん、わたしも蒼ちゃんに一票。秋葉ちゃん、もちょっと元気だしてくれないと寂しいなー」  作業もそのままに、散らかし放題で羽ピンも自分のベッドに引きこもってしまった。 「………………」  突然場の雰囲気が変わってしまって、一人でお茶を飲んでいる気分ではなくなった。 「……分かったわよ、私も寝ればいいんでしょ」  納得のいかない趣で電気を消して、寝心地の悪いベッドへもぐりこんだ。 □寄宿舎の部屋  そうして、相変わらず眠れずの夜が来る。  退屈を紛らわせるために今日一日の出来事を振り返って、図書室での一件を思い出した。  何の仕掛けもなかった封筒。  倒れてきた本棚。  最近、なにかと生傷の絶えない自分。 「……段々手が込んできたなって思ったけど、今日のは冗談では済まされないわね」  分かっているのだろうか?  いや、分かっていないから止まらないのだろう。  きっと事故がさらに背中を押してしまったのだ。  今まで程度の生傷なら期限まで我慢してあげようとも思ったけど、そういう訳にはいかなくなるかもしれない。 「————————はあ」  罵迦みたい。  どうして呪いになんて付き合ってあげているのか。  それは自分も信じていたいからだ。  こんな、何よりも望む願いを他人に任せようと思うほど、今の私は消沈している。  蒼香の言う通りだ。  軽い気持ちでやってみたら、その続きがあったから興味を持ってしまった。  こういうのも“軋み”の一種と言えるだろう。  偶然が転がって転がって、遥かな高みから見ればその軌跡が呪陣になっているようなものだ。  なら、タイミングが悪かったのは一体どちらの方なのだろう……? □寄宿舎の部屋  食堂での朝食が終わって、時計の針は午前七時をわずかにすぎる。  良家の娘たるもの、慌てて朝食を済ませて学園に向かうなんて、そんな無様なスケジュールはそもそも規則に存在しない。 【蒼香】 「遠野。四条の姿がなかった事に気が付いた?」  登校前の穏やかな時間を台無しにするように囁く蒼香。 「……ええ、気付いてた。やっぱり私の見間違いじゃなかったみたいね」 「そうだな。どうする? なんならあたしが様子を見に行こうか。おまえさんじゃなにかと話がこじれそうだし」 「お心遣いは嬉しいけど、これは私が頼まれた問題でしょう? 蒼香が入ってきたらそれこそおかしな方に話が進む」  それじゃ、と手を振って一足先に部屋を後にした。 □寄宿舎の廊下  四条つかさの部屋は二人部屋だった。  ……そういえば、そもそもは四条つかさのルームメイトからの苦情から話が始まったのだっけ。 「四条さん、遠野だけど」  ドアをノックする。  ……返事はなく、ただ部屋の中でごそごそと蠢く気配だけが返ってきた。 「四条さん。話があるんだけど、いいかしら」  さらにノック。  部屋の中の気配は一層慌ただしいものになる。 「四条さん、私もあまり暇があるという訳ではないの。確認したい事があるから、失礼するわね」  ドアノブに手をかける。  途端———�  壁に椅子を投げつけたような、そんな不快な音がした。 「———うるさい、遠野は入ってくるな……!」  ついで、怒鳴り散らすような四条つかさの声が聞こえてきた。  何事か、と他の部屋の生徒たちが廊下へ顔を出し始める。 「—————まいったな」  これじゃ強引に中に入ろうものならどんな噂をたてられるか分からない。  こっちはただ朝食に参加していなかった理由が知りたかっただけだし、ここは大人しく引く事にしよう。 「……あの、遠野さん?」  遠巻きに見ていた一人が声をかけてきてくれた。 「おはようございます。ごめんなさいね、朝から騒々しい空気を流してしまって」  我ながら極上の笑顔で挨拶をする。  見覚えのない生徒はそれで安心したのか、ほっと胸を撫で下ろした。 「あのさ、つかさのコトだけど、気にしないでやってくんない? あの子さ、昨日の夜ケガをしてからますますノイローゼっぽくなっちゃったんだ」 「ええ、承知しています。寮長の方から四条さんが気分を悪くしていると聞いていましたから。……それで、昨日の夜のケガはもうよろしいのでしょうか?」 「……それなんだけど、つかさったらわたしらにも見せようとしてくれないのよ。安藤……ああ、ルームメイトの子なんだけど、安藤も部屋から追い出しちゃって、昨日からずっと一人で閉じこもってるの。  ……そりゃああれだけの火傷だから、あんまり人には見せたくはないと思うんだけどさ」 「————そうですね。火傷の跡なんて、あまり人には見せられるものではありませんから。私が四条さんの立場でしたら、完治するまでは人前になんて出れないわ」 「え……あ、遠野さんがそう言うならいいけど。……遠野さん、怒ってないの?」 「ノイローゼなのでしょう? そういう方には同情こそすれ憤りを覚える事はありませんわ。皆さんも四条さんを刺激しないよう、優しく接してあげてくださいね」  少なくともあと二日間ぐらいは無視してやってほしいものである。 「……うわあ。遠野さん、帰ってきてから丸くなったんだねえ。なんか見違えちゃった」 「そう? 私は以前と変わっていないけど」  そうかなあ、と首をかしげつつ自分の部屋へ戻ろうとする生徒。 「あ、聞き忘れていたのですけど」 「ん、なに遠野さん?」 「四条さんがケガをしたという所は何処なのかしら。顔、それとも髪?」 「え———————?」  彼女は不思議そうに目をしばたたいて、火傷したのは腕だけど、と返答した。 □浅上女学院の教室  休み時間を利用して、とりあえず昨夜の顛末を知る事が出来た。  昨夜私たちが部屋でじゃれあっていた頃、四条つかさは交友室でお喋りをしていたらしい。  そうして仲間うちでの賭けに負けて紅茶を淹れにいった時、なにやらトラブルを起こして片腕に火傷を負ったとのコトだ。  ちょうど調理室に誰もいなかった事もあり、彼女がどうして火傷を負ったのかは不明らしい。  それがガスコンロによるものなのか、それともストーブに向かって倒れこんだのかはなんとも。  ただ火傷自体は軽いもので、病院に行くほどではなかったそうだ。 「そんなのあったりまえじゃない。どうやったら交友室で大怪我ができるっていうのよ、ったく」  いい加減あたまにきていたのか、はしたなくも頭を掻きながら暴言を吐いてしまった。 □浅上女学院の生徒会室  生徒会室に足を運ぶ。 【アキラ】 「こんにちは遠野先輩!」 「——————————」  ……今日は私的な用件で訪れたのだけど、何の因果か瀬尾が尻尾をふる子犬のような目で私を待っていた。 「こんにちは瀬尾。今日も資料整理に来たの?」 【アキラ】 「はいっ! あ、あとですね、昨日遠野先輩が言ってたコトを調べてきたんです!」 「昨日私が言った事……? ああ、紫の私書箱のことか」 「はい、遠野先輩の力になれたらいいなって思って。あ、けどちょっとしか詳しい話は聞けなかったんですけどね」 「そう———わざわざありがとう、瀬尾。悪いわね、なにか気を遣わせてしまったみたいで」 【アキラ】 「いえ、そんなコトないですよう。あの後ですね、ちょうど先生に会ったから訊いてみただけですから、お礼を言われちゃうと困っちゃいます」 「————————」  うっ、相変わらず無防備にもどうにかしてやりたい笑顔を浮べてくる。  瀬尾が高等部に上がってくる頃、私は三年だから生徒会からは引退しているワケか。……その時のために自治会に鞍替えする準備ぐらいはしておいた方がいいかもしれない。 「それで瀬尾、判った事というのはなんなの?」 【アキラ】 「あ、はい。えっと、紫の私書箱が元々は学園側が行うアンケートを集める箱だった、というのは言いましたよね? けど今はこの方式は採用されていませんから、きっと止める原因があったと思ったんです」 「そうね。うちは伝統第一だから、昔から伝わってきている事をそう簡単に止めたりはしないもの」  いい着眼点。これでもうちょっと冷静さと貫禄があったら言う事ないんだけどなあ、瀬尾は。 「で、ですね。アンケートが中止になったのが十年ほど前なんですけど、この時に誰かの悪戯でアンケートに出した手紙が戻ってきた事があったそうなんです。……その、校則違反をしていた生徒の密告文だったとかいう話で、悪戯というよりは密告されそうになった生徒が脅迫の意味で戻したらしいんですけど」  瀬尾はそろそろと私の顔色を窺う。  ……私がその手の話を嫌う事を知っているからだろう。 「いいわ、続けて」 「は、はいっ。えっと、手紙が戻ってきた以上、学園側に要望は届きません。ですから願い事は叶えられなかったわけなんですけど、ちょうど七日後に、その……」 「———なに? その子、死んだ?」 「………はい。週末に宿舎を出て、交通事故でお亡くなりになったそうです」 「ふうん。それはもちろん、何の関連性もない不幸な事故だったのでしょう、瀬尾?」 「そうなんですけど、例のアンケートを巡って諍いがあったのも事実でした。……そんな事があって、学校側はアンケートを止めちゃったらしいんです。けど手紙は相変わらず投書されて、いつからか、その……」 「七不思議の一つになった、というのね。それでまさかとは思うけど、手紙が返ってきたのにも拘わらず願いが叶わなかった人は死んでしまう、なんていう愉快な噂話まで付いてしまったわけ?」  はい、と申し訳なさそうに頷く瀬尾。 「—————はあ」  ああ、思わずため息をついてしまった。  そりゃあ七不思議なんて物の一つに数えられる以上、モデルになった話はあってしかるべきだ。  だからってその、不幸な事故ばかりをクローズアップして噂にするから、そんなねじくれたシステムが出来あがってしまい、こうして些細な偶然に巻きこまれる人間が出てくるのである。 「まいったなあ、ようするに逆だったんだ。叶ったら失うんじゃなくて、叶わないと失う規則なんだ。なによ、まるっきり呪いじゃない」  そうして失う大切な物というのは、ようするに術者の命というコトか。 「呪いっていうのは実在すると思うのよ、私」  擦りむいた肘に絆創膏を貼りながら、唐突に話題を切り出した。 「呪いって、七不思議の続き? あんなのは迷信だってコトで決着がついたんじゃなかったっけ」 「なにも七不思議の事じゃないの。偶然であれ作為的であれ、きちんとした循環を作っておけば人を呪うっていう事は出来るんじゃないかなって。  Bに恨みを持つAがいて、Aがそうなったらいいなって思う風に、ある日Bが死んでしまうような状況を作っておく。呪いってつまり、そういうコトだと思うんだけど」 「……なんだいそりゃ。ようするにアレか、AはBに恨みがあるから殺し屋を雇う。で、Aが指定した日に殺し屋がBをコンクリート詰めにして海に沈める、とかそういう話?」 「違う違う。それはどっちかっていうと式を打つっていうヤツ。自分の手を下さず、目的に適した他者に命令して行動させる事じゃない。  私が言っているのは“状況”の話。Bを殺したいAも、Aのことなんて知らないBも、一緒になって同じリスクを負うっていう状況よ。  そうね、例えばこの部屋には沢山の地雷があるとしましょうか」 「なんだ、いきなり生々しい話になってきたな」 「解りやすくていいでしょう?  ……で、実はその地雷というのは、実は実生活にはなんら影響のないものなの。普通に生活している分には爆発しない。けど、ここで実生活からかけ離れた行為……例えば羽居が私の櫛を使うとか、蒼香が私のタオルを使うとか、そういった本来行う筈のない行為をするたびにポイントが溜まって行ってしまう。  もちろん私も、まあ絶対にやらないんだけど羽居が大事にしているクッキーを盗み食いするとポイントが溜まっていく」 「……解った。そのポイントが一定値に達すると地雷が反応するとか、そういう仕組みか」 「ま、簡潔に言うとそういう事ね。本来起こり得ない行動、というのはようするに偶然の積み重ねでしょう?  その偶然というスイッチを何度も何度も押しているとその“状況”が変化する舞台設定を作る、というのが呪いだと思うわけ。  また例え話になるけど、羽居が私の櫛を使おうとして私の箪笥に近づくと、なんと私より五キロは重い羽居は箪笥がある床に負担をかけてしまう。これが十回続くとあら不思議、床は抜けてしまって部屋は全壊、哀れ三澤羽居はお星さまになってしまうワケね」 「なるほど、そりゃあ屁理屈だ。そもそもそんな事で部屋が全壊していたら、あたしらはもう二十回以上は死んでる」 「でしょ? だから、この部屋をそういう風に作りなおす事が“呪い”なの。そこには呪いを形成した術者も参加する。術者はつねに状況が成立しているか見張らなくちゃいけないから。  で、参加するからには当然のように呪いは術者にも牙を剥く。人を呪わば穴二つっていうのは、ようするにその状況がAかB、どちらに転ぶか不定だから言うんじゃないかな」  なんて、とりとめのない妄想を口にする私。 「……ふうん。つまりおまえさんが言いたいのは、七不思議の怪談というのはその呪いだってコトか。けどさ、それじゃあこれはどちらの呪いなんだい?  遠野の言じゃ、状況というのは人為的に作るものと、自然に作られてしまうものとに別れるんじゃないのか?」 「さっすが、冴えてるわね蒼香。……ま、紫の私書箱っていうのは自然発生した呪いかな。けどこの呪いはスイッチがすごく少ないから、普通は成立したりしないんだけどねえ」  もう片方の肘にも絆創膏を貼る。  寄宿舎に戻ってくる途中、派手に道で転んだ結果がこれだった。 「あー、またそういうコトしてるー! もうっ、どうして秋葉ちゃんは最近物騒なの?」  今までのややこしい話は自動的にカットしていたのだろう、話を切り上げた瞬間に羽ピンは声をあげた。 「うわ、いたそー。秋葉ちゃん、ここんとこケガしてばっかりだよね。ケンカもしてないっていうし、一体どうしちゃったのー?」  興味津々、とばかりに覗きこんでくる羽ピン。  それに、 「ああこれ? きっと呪いじゃない?」  と即答した。 「———————え?」  二人の声がハーモニーする。  私は擦りむいた腕に消毒液を吹きかけながら続ける。 「実はさ、私も手紙を出して返ってきたのよ。これが五日前、ようするに四条さんと同じ日ってコト」 「———————?」  羽ピンは事情が分からず首をかしげて。 「わははははは、なんだそれ面白すぎ!」  蒼香はまあ、予想通りお腹をかかえて爆笑していた。 「……ちょっと蒼香。予想通りとはいえ、そこまでされると流石に頭にくるんですけど?」 「いや、いやいやいやいや、おまえさんもあと二日の命ってわけか!」  蒼香はさらに笑い転げる。  ……まったく。ここまで友達甲斐のないヤツが無二の親友だっていうんだから、その時点で私は呪われているのかもしれない。 「……あー、いや、一年分は笑わせてもらったな。  で、実際の所どうなんだ。生傷が絶えないってコトもあるし、遠野は呪いを信じているのかな」 「いいえ。呪いなんていう偶然任せの復讐なんて趣味じゃないもの」  そもそも大体のカラクリはとっくに判明している。  これは呪いではなく、ただの憑き物だっていう事は彼女を見た時から分かっていた事だ。  ……ただ、解らないのはどうして手紙が返ってきたのかという事。  あれさえなければ私もここまで真面目に付き合う事はなかっただろう。  けれど。柄にもなく、他人任せの願いにもう少しすがっていようなんて、そんな弱くて少女らしい夢に浸っているのも悪くはなかった。 「けど飽きたわ。決着をつけてくるわね」 □寄宿舎の廊下  思考を切り替えて席を立つ。  その後は早かった。  迷うことなく四条つかさの部屋まで歩いて、鍵ごとドアノブを回して中に入った。 「——————はあ」  ため息が癖になりつつあるなあ、と夜空を見上げながら呆れる。  生憎、四条つかさは部屋を留守にしていた。  ルームメイトである安藤さんもいないし、かといって啖呵を切って部屋を出てきた以上おめおめと戻る訳にはいかない。  そういった理由で、私は宿舎の屋上で風を浴びていた。 ————冬の風は冷たい。  冷たいなんていう、そんな控え目な表現が笑えてしまうほど冷たい。  いつ雪が降り出してもおかしくない天候なのだから、とてもじゃないけど長居はできない。 「……かといって交友室にいるのもアレだし」  私が交友室に足を運ぶと、中等部の子は善意で集まってきてくれる。  が、高等部の連中は私に挨拶しておかないと酷い目に遭わされるとでも思っているのか、おっかなびっくりで社交辞令を連発するからたまったものではない。  なんだってこう、同い年の子に姉御扱いされなくてはいけないのだろう? 「———さて、どうしてものかなあ」  寒さで震える体を抱きながら屋上を歩く。  ……そういえばここから中庭は見えるだろうか。  全ての発端である裏庭のポストは消失したけれど、他のポストはまだ健在なのかもしれな——— 「———————え?」  手を伸ばすと、そこには掴む物が一片さえなかった。  落ちる。  唐突に、後ろから押されて、間抜けにも私は四階建ての宿舎の屋上から地上へと落下していた。 □浅上女学院の医務室 「—————————びっくり」 【蒼香】 「驚いてるのはこっちだ。屋上から落ちて擦り傷だけ、なんてどんな体してるんだ。おまえさん、ほんとに人間か?」 【羽居】 「あはは、秋葉ちゃんってば元気すぎー」  目の前には見知ったルームメイトの姿が二つ。  私は医務室のベッドにいて、体にはこれといって怪我はないようだった。 「———蒼香、今何時?」  落下のショックか、それとも気を失っていた後遺症か、胡乱な頭のまま友人に質問する。 【蒼香】 「夜の十時前。消灯時間ぎりぎりってところ」 「……そう。なんだ、それじゃあ落ちてから一時間も経ってないのね」 「ああ。先生に呼ばれた時はさすがに驚いたけど、来てみたら余計驚いたね。これのいったい何処が怪我人なんだって目を疑ったぐらいだ」 【羽居】 「そうだよねー。なんでも木とか茂みがクッションになったんだって先生は言ってたけど、それにしたってヘンだよ。秋葉ちゃん、お洋服までがんじょうなの?」  ……羽ピンは羽ピンでどうでもいいコトに首をかしげている。 【蒼香】 「で。なんだって屋上から落ちたんだ」  羽ピンを押し退けて真剣に問いただしてくる。 「ん、まあなんとなくよ」 「…………………………」  お茶を濁してみたが蒼香には通じなかった。 【蒼香】 「———ふん。その、呪いってヤツか」  冷たい目で蒼香は言う。  蒼香には私が屋上から落ちた理由が解っているのだろう。けど、それはやっぱり間違っている。 「ありえないわ。こんな健全なところで呪いなんて流行らないって言ったでしょう」 【蒼香】 「そんなものは人によりけりだよ、遠野。呪いってものがなんであるか知らない人間が呪いを行う場合だってある。世の中、おまえさんみたいに頑丈な人間ばっかりじゃないんだ」 「……ふうん。私は自分が頑丈だとは思わないけどね」 「いいから聞け。  呪いっていうのはさ、あたしらから見れば願掛けと同じようなものなんだ。絶対に叶えたい願いを成就させるためだったら、人間ってのは背水の陣を敷く。……その願いが叶わなかったら破滅するぐらいの馬鹿げた状況に自らを追いこむんだ。  分かるだろう? 普通、本物以外の呪いっていうのはね、相手にではなく自分にかけるものなんだから」 「—————————」  人を呪わば穴二つ。  呪いとは目的達成のため、自己にかける強力な暗示に他ならない、と蒼香は言う。  けど蒼香。  そういう性質の悪い呪いを、私たちは憑き物っていうんだよ。 「けどまあ。確かに、今回の話はそんな事なんでしょうね」  ため息をついて窓の外に視線を移す。  私が落ちたであろう中庭には誰もいない。  冬の夜には闇が薄い。  呑まれてしまうような夜の粒子は冬の外気によって凍結し、様々な想念をも凍りつかせる。  腐食性の呪いの行使は夏にこそ相応しい。  今は一月。  呪いだの怪談だの、そういったお噺はとっくに旬を逃している——— □浅上女学院の裏庭  なにやらまだ何か言いたげな蒼香と、今夜は医務室で秋葉ちゃんと寝るー、とうるさい羽ピンを部屋に追い返して、深夜。  誰もが寝静まった頃を見計らって裏庭へとやってきた。  この時間、この場所なら誰の邪魔も入らない。  ここまでお膳立てをしてあげたんだから、彼女もすぐにやってきてくれるだろう——� 「きた、かな」  背後から落ち葉を踏みしめる音が聞こえた。  足音を極力忍ばせているけど、子供のかくれんぼとなんら変わりのない忍び足だ。 「こんばんは。さすがに夜は冷えるわね、四条さん」  相手を刺激しないようにゆっくりと振りかえる。 【四条つかさ】 「————————げ」  ……失敗した。  いくらこっちが穏便に済ませようと思っても、相手がとっくに追いこまれていたのなら意味はない。 「気持ちは解るけど、それはちょっといただけないわね。そんなナイフじゃ自分が怪我するだけって分かってる?」  それでも冷静に話しかける。  こういう場合、きちんと人間らしく、理路整然とした会話をすれば正気を取り戻してくれるものだって聞いたけど——— 「———おかしいよ。屋上から落ちたのに、なんで生きてるの? 遠野さん、普通じゃないわ」  震える指でナイフを持ちながら、これまた震える唇でそんな事を言っている。 「わたし、遠野さんに消えてもらわないと困る。ね、何度も転校してるんだからまた転校するのもかまわないでしょ? あと二日しかないんだから、早く出ていかないとタイヘンだよ?」 「そうなの? 別に私は何も変わらないけど。七不思議はただの迷信だし、四条さんの所に返ってきた手紙だって誰かの悪戯よ。  別に四条さんの願いが叶って私が消える事もないし、願いが叶わなくて四条さんが消えるような事もないのだけど」 「わ、分かってる、そんなコト分かってる……! けどイヤなの、気持ち悪いじゃない、こんなのっ……!」 「——気持ち悪いって、その怪我の事? 指の次は腕ですってね。四条さんも私同様運がないんだ。……って、違うか。私の方は人為的なものだけど、四条さんの方はただの偶然だものね。ええ、たしかにそれは気持ち悪いわ」  意識であれ無意識であれ、自分で自分を傷つけるなんていう行為は確かに気持ちが悪いだろう。 「この分じゃ明日には足かしら。それで次は顔? ちょうど七日目だから、その時こそは命に関わる傷を負うのかもね」 「——ち、違う、そんなコトないっ! こんなのただの迷信なんだから、ケガするのは今日でおしまいだもの……!」 「私が四条さんの前から消えれば? 例えば、マジックショーみたいに屋上から一瞬にして消え去るとか。タネは単純、たんに地上へ飛び降りるだけなのだけど」 「—————————」  ざあ、と。  青かった顔をさらに青くして彼女は後じさった。 —————さて。  いつまでもこうしていても寒いだけだし、もう飽きた。  どっちが被害者なのか判別がつかないケースだから穏便にすませようと思ったけど、却下。  そもそも冷静に話ができる状態じゃないし、彼女。 「あ……あの、わたし————」 「罵迦ね。自分の手で願いを叶えられるなら、初めから手紙なんて送らなければ良かったのに」 「ち、違うの、そうじゃないの……!アレは、本当に偶然で————遠野さんが私に会いに来たって、いなかったから屋上に行ったって、だからわたし屋上に行ったら、遠野さんが———」 「無防備にも中庭を覗いていたから?」 「———ただ思っただけだったのに、どうして? ああ、今背中を押したら落ちて死んじゃうのかなあって思っただけなのに、わたし、勝手に———」 「私の背中を押して落としてしまった訳ね。……恐いなあ、殺意がない殺人だから殺気も何もなかったわけね」  もし四条つかさに明確な殺意があったのなら、私だって少しは気が付いただろう。  けれどまあ、突然魔がさして手を動かしただけの気配なんて私は感じ取れない。  ……まあ、普段は思いっきり鈍いくせにそういう時だけ悪魔みたいに鋭いあの人なら、四条さんの間違いも正してあげられたんだろうけど。 「———けれど、アレは立派な殺人です。机の中にカッターをいれるとか階段で背中を押すとか、そういった事なら最後まで我慢してあげようと思ったけど、それも終わりね。  四条さんもそのつもりで来たのでしょう?」 「——————————」  ガタガタと震えている四条つかさを見つめる。  ……どのみち、私を突き落とした時点で彼女の憑き物は本物になった。  あそこで私が死んでいれば彼女は立派な殺人犯だし、私がこうして生きていても都合が悪い。  屋上から突き落としたのは四条つかさだ、と私が証言すれば彼女はやっぱりそこで終わりだ。  自分の手で事を起こしたからには、彼女は最後まで走りきるしかない。  とりあえずは、まず、生きている私の口封じをしなくてはならないだろう。 「————あ、もういいわよ。  私からの話は終わったから、どうぞ始めて結構です」 「ぁ————ぁ、ぁ…………」  ナイフを持つ手はまだ震えている。  ……情けない。これじゃ一晩中こうしているハメになりそうだ。 「……そう。それじゃいいのね? 言っておくけど、私、手加減なんてしなくてよ。殺されかけたのだから、貴方が許してくださいって謝るまで殺してあげる」  にこり、と。  極上の笑みをうかべてそう告げた。 「ぁ————あぁぁぁあああああ……っ!!」  さっきの私のように。  目に見えない何かに背中を押されて、彼女は襲いかかってきた。  ……けどそんな物、何がどうという訳でもない。 □浅上女学院の裏庭  メチャクチャに振るわれたナイフを、首の動作一つだけでやりすごす。  そのまま、容赦なく足の甲を彼女の延髄に叩きこんだ。 ————蒼香直伝、必殺の上段回し蹴り。  それはこれ以上はないっていうぐらい、見事に彼女の意識を刈り取った。  ……というか、あやうく命まで刈り取る所だったかも。 「ぁ…………」  崩れるように倒れこむ四条つかさ。  はらり、とナイフに切られた髪が落ちていく。  紙一重で躱わしたものだから右側の髪がざっくり切られてしまったのだろう。 「———はあ。なんだ、結局」  願い事が叶おうが叶うまいが、女の命を取られてしまった訳である————。 □寄宿舎の廊下  翌日、土曜日、午前中。  休日という事で宿舎は普段より閑散としている。  休みを利用して朝から出かけている者、部活動に勤しむ者、午前中はベッドから出ない者。  そういった様々な理由で、宿舎で活動している生徒は普段の三分の一を切っている。  私は医務室で目覚めて、朝一番で外出許可を貰い、お抱えの美容師に髪を整えてもらって帰ってきた。 □寄宿舎の部屋 「ただいまー……って、珍しい。二人とも起きてる」  どうも二人は私の帰りを持っていたらしい。  昨夜、無理やり医務室から追い出したというのにこの気のつかい。……うん、友情というのはいいものだなあ、とかみ締めてみた。 「——————————」 「——————————」  二人は呆然と私を見ている。  あ、いや、羽ピンはいつも通りだけど、蒼香はそれこそ凍りついたように私を見ていた。 「なに? 私の顔に何かついてる?」 「————髪。おまえ、髪の毛、どうしたんだ」  乾いた声で蒼香は言う。 「ああこれ? ちょっと切っちゃったから、上げてみたの。本当はばっさり切っちゃおうと思ったんだけど、そんなのも女々しいから止めた。別に私が髪を切った所で何が変わるわけでもないんだし」 「いや、そうだけど———これまた、随分と」  そういう意地悪そうなキャラクターが似合うな、と蒼香は口元を痙攣させた。 【羽居】 「うわー。秋葉ちゃん、よけいかたくななかんじー」  何が嬉しいのか、わーいとはしゃぐ羽ピン。 「———————」  失礼しちゃうな、二人してその言い分はないと思う。  これでもポニーにするか三つ編みにして誤魔化すか悩んだ末の選択だっていうのに。 「そうですか。いいのよ、どうせ髪が伸びるまでの間に合わせなんだから。春になればまた元通りになるし、それまでの我慢です」  ふん、と二人から視線を逸らす。 「そうだねー。それじゃわたし、ちょっと出てくるー」  と、慌ただしく羽ピンは出ていってしまった。 「……?なに、あれ」 【蒼香】 「ああ、羽居は上のヤツに呼ばれてたんだ。けどおまえさんが帰ってくるまで行かないって駄々をこねていたわけ。懐かれてるね、遠野」 「……はあ。餌付けした覚えはないんだけど」  ため息まじりに答えつつ、私は頬を緩ませていた。 □寄宿舎の部屋  そうして、話は自然七不思議の話題になった。  蒼香には昨夜の出来事をかいつまんで話して、いちおう事件は解決したと説明する。 【蒼香】 「なるほどね。四条が医務室で眠ってるのはそういう訳か。……ま、なんにせよいい薬になっただろう。痛みが強ければそれだけ罪の意識も消えてくれる」  蒼香はあっさりと納得した。  この子のこういう淡泊な所は正直すごいと思う。 「……ふうん。本当言うとね、私は納得いかないんだ。だってさ、たかだか手紙が返ってきただけで有りもしない呪いに取り憑かれるなんて信じられない」 【蒼香】 「同感だが、今回は運が悪かったんだね。四条もさ、消えて欲しいって願った相手が遠野じゃなかったらそこまで思いつめなかったと思うよ」 「……む。どういう意味よ、それ」 【蒼香】 「さあ? 何かの間違いで知られたらそれこそ十年前の事故の再現になると思ったんじゃないか? おまえさん、歯向かうヤツには容赦しないだろ。四条がホントに恐がっていたのは呪いじゃなくておまえさんだったんじゃないかって話」 「—————チ、一撃だけじゃ足りなかったか。こう、蒼香みたいにそのままカカト落としに連携させて息の根止めてやれば良かった」 【蒼香】 「こらこら、ぶっそうなコト言うなっての。四条のヤツな、ムチウチ一ヶ月だそうだぞ。そこまでやったらホントに十年前の再現だ」  一息つくのか、淹れたばかりのお茶を飲む蒼香。  蒼香は紅茶・コーヒーがまったくダメで、持参した湯呑みと急須を愛用する変わり者だ。……和風びいき、という事でどこかの誰かさんと気が合うかもしれない。 「けどまだ全部が解決した訳じゃないのよね。ほら、問題の手紙について。そもそも差出人の名前がない手紙が戻ってくる、なんて事が発端だったわけでしょう?」 「そうだな。そればかりは偶然で済ませられる話じゃないか」  ずず、とお茶をすすりながら頷く蒼香。 【羽居】 「ううぅ、やっとアルバイトが終わったよう」  と、そこへ疲れきった顔で羽ピンが帰ってきた。 「お帰り。なに、やっとお役ごめん?」  うん、と頷いて絨毯に倒れこむ羽ピン。 「ばたんきゅー」  なんて口で言っているあたり、まだ余裕はありそうだ。 【蒼香】 「お疲れさん。休み明けからの仕事が終わって良かったな」 「うん、ありがと蒼ちゃん。わたしもお茶欲しいー」 「またおまえは、飲めもしないくせに人の茶に手を出すなというんだ。……で、聞き忘れていたけど羽居は何がそんなに忙しかったんだ? 文化祭も終わったし、おまえが駆り出される仕事なんて今はもうないと思うんだけど」 「それがねー、聞いてよー」  自分のティーカップに蒼香のお茶を淹れて、羽ピンは話し始めた。 【羽居】 「あのねー、寄宿舎が改築されるでしょ? それでね、ちょうどいいからって今まであったポスト制度を廃止するコトになったんだー。これからは受付の事務さんに手紙を渡す方式になるんだって」 「—————————」  待て羽ピン。そんな話は聞いてない。 「けどいきなり決まった話らしくって、冬休み前に投書された手紙がまだ残ってたの。それでね、その整理を先輩に頼まれて一人でやってたんだ」 —————ああ。そういえば、夜は夜でなにやら区分けらしき事をしていたっけ、この子。 【蒼香】 「へえ、それは初耳。ポスト制度が廃止って、つまり寄宿舎内の郵便受けはみんな撤去されたってことかい?」 【羽居】 「そーだよー。それでね、これからは家族への手紙とか友達への手紙とか、全部先生が一つずつチェックしていくんだってー。宛名とか住所とか、いちいち相手側に連絡して確認するんだよ。これってプライバシーの侵害って言うんだよね」  プライバシーの侵害、という単語が気に入ったのか、自慢げに指をたてる羽ピン。 「そうか、それで手紙の整理をしていたってワケか。……って、ちょっと待て。それじゃあ宛名も住所も書かれていない手紙はどうしたんだ?」 「ごみ箱に捨てられちゃうんだって。けどそれじゃあんまりだから、ちゃんとみんなの所に返しておいたよ」  さらに自慢げに語るルームメイト。 「————あ」 「わたし頑張ったんだから。もう、冬休みを返上して寄宿舎に残ってたぐらいだもん」  えらいー? と無邪気に胸を張る。 【蒼香】 「……おい。宛名も住所もないのに誰が送ったか判るのか、おまえは。中にあっただろう、紫色の、何も書かれていない封筒が!」 「——————あ、」 【羽居】 「だって中みたもん。えっとねー、四条さんは字でわかったかなー。秋葉ちゃんは中身も白紙だったけど、そういえば秋葉ちゃんも紫の封筒で何かやってたなあって覚えてたから、秋葉ちゃんに返しといたんだよ。ちゃんと机の上にあったでしょー?」 「——————あんたが元凶かーーーーっ!」 □寄宿舎の部屋  スパコーン、とスリッパの先端で羽ピンを殴打する。 「ひっどーい! 秋葉ちゃんらんぼうものー!」  わーん、と泣き出す羽ピン。  ……ええい、泣きたいのはこっちの方だ、ばかっ。 【蒼香】 「ああ、そういえば帰ってくるなり遠野に言わなくちゃいけない事がある、なんて言ってたものな羽居は。なるほど、言い忘れてたっていうのはコレのコトか」 【羽居】 「ううん、違うよ? お正月にね、宿舎にいたらシスターさんがやってきたんだ。それで遠野秋葉さんを知ってますかっていうから、ルームメイトですって答えたの。そしたら秋葉ちゃんに渡してくれって、手紙をくれたの」 —————また静寂。 「……羽居」 【羽居】 「あ、思い出したー。はいこれ、秋葉ちゃんにあげるー」  がそごそと、あのカオスのような机から手紙を発掘する羽ピン。 ———その手紙は、まあ。  予想通りといえば予想通りの人物からの物だった。 □羽居の机  ……内容はとても簡潔な物で二行もなかった。  ただあの人の治療が終わったとかいう文と、  一年ほど本国に戻るからそれまでお預けしますとかいう、ふざけた文。 「———————————」  何を思ったのかなんて、真っ白すぎて解らない。  ただカタチになった感情があるとしたら、それは。 「なんだってアイツに助けられなくちゃいけないのよ」  なんて、自称先輩という女に対する感情だけだった。 □寄宿舎の部屋 「遠野……?」  蒼香の声で目が覚めた。  私は手紙をポケットに押し込んで立ちあがる。 「————帰る。もしかしたら戻ってこないかもしれないから、後のことはよろしく」 「は? ちょっと待て、帰るって一旦帰るとかそういう意味じゃなくて……!?」  慌てる蒼香を無視して荷物を纏めにかかる。 ————と。  鏡に映っているのは、半端に長い髪を上げた遠野秋葉の姿だった。 「—————————」  それでまた頭の中が真っ白になった。  ……いや、自分らしく冷静になってくれたのかもしれない。  まず思った事は、こんな髪じゃ顔を合わせられないという事。  次に思ったのは、人をこれだけ待たせておいて、ひょっこりとなんでも無かったように帰ってくるというアレに対しての憤りとかなんとか。 「—————————む」  ……ああ、本当に腹が立ってきた。  私をこれだけやきもきさせておいて、それでもう家に帰ってきているですって?  しかもこんな手紙で、かつあんな女に連絡を任せたっていうのあの朴念仁は……! 【蒼香】 「—————————」 「……遠野、格好なんて気にすることはないよ。おまえさんぐらいだと少しぐらいが瑕瑾あったほうが丁度いい。……そりゃああたしたちは淋しくなるけど、それがおまえさんにとって一番大事なことな事なら———」 「————————止めた」 「そう、さっさと止めた方がいい———って、なに?」 「だから、帰るのは止めた。これで慌てて帰るなんて気に食わない。今までさんざ待たされたんだから、今度はあっちが待つ番だもの。  私だって、偶には———兄さんを困らせて、あっちから会いにこさせないと割が合わないわ」 【蒼香】 「——————————」  蒼香の口元が笑いに歪む。  彼女ははは、と小さく笑ったあと、 「いや、いい女だなぁ遠野は!」  なんて、昨夜のようにお腹を抱えて爆笑してしまった。 【羽居】 「ありゃ。蒼ちゃん、壊れちゃったみたい。滅多に笑わないのに、ここんとこ連続だー」 「——ま、いいんじゃない? 蒼香もたまには笑わないとバランスが悪いってものだし」 「そういう秋葉ちゃんも笑ってるね。うんっ、転校する前の元気な秋葉ちゃん」  羽ピンはにんまりと嬉しげに笑う 「そう? なんだ、それじゃあ三人とも笑いっぱなしってワケね。あはは、誰かに見られてたらヘンな連中だと思われるかな?」 「ううん、普通だよ。だって今日はお休みだし、みんな揃ってお茶飲んでるだもの。秋葉ちゃんも蒼ちゃんもわたしも、みんなそろっておんなじだい」  羽ピンは本当に嬉しそうに笑った。  それも普通。彼女はともかく、いつもこんなふうに幸せそうに笑うのだ。 「———ふ。うふふ、あははははは」  彼女の素直さに釣られて、つい声を出して笑ってしまった。  それは思いのほか気持ち良くて、さっきまでのいろんな考えがどうでもよくなってしまう。  待っていた自分。  出ていって、帰ってきても変わらずにいてくれたルームメイト。  待ち続ける不安に馴れるのが恐くて、つまらない願いをカタチにしようとした自分の少女らしさ。  それと、眠れない夜に抱き続けた、胸の中の温かさ。  私の願いは貪欲で、  帰ってきてほしいと思ったけど、そんなコトだけじゃきっと全然満たされない。  だから、初めから学園の七不思議程度で叶えられる願いではなかったし、私が願っていたのはもっと他の事だったと思う。  ……まあ、こんな事をはっきりと口にしては身も蓋も少女らしさもないと思うのだけど。  あの人を手に入れたいと思うのは、願いではなく私の野望ではなかろうか? —————とにかく春。  冬が深まり、雪が降って、霜が消えてなくなる頃。  私の髪も元に戻って、もうこれ以上は我慢ができなくなった頃に屋敷に帰ろう。  その時にはきっと、私と同じぐらいやきもきした筈のあの人が、今か今かと門の前で待っていてくれるだろうから————